今回は、今世、生まれて初めて、自分のこと以外で嬉し泣きした体験、その経緯をご紹介します。実は、それまで、自分のことでさえも、嬉し泣きしたことはなかったかもしれません。
それは、家内の卒業式へ出席した時のことです。「子どもの卒業式」ではなく「家内の卒業式」というと、「奥さんは、歳が離れた大学生?」と思われるかもしれません。しかし、当時、私は40代前半で、家内は30代半ばでした。

以前にもご紹介しましたが、当時、家内はオーストラリアで留学中でした。なれそめは、別の機会にしますが、遠距離恋愛と遠距離結婚の末、2008年4月から、やっと新婚生活が始まりました。家内は学業に専念し、私が主夫となりました。
2009年4月、Brisbane(ブリスベン)市内のホールで、家内のMaster’s Degree(修士号)のGraduation Ceremony(卒業式)がありました。こちらでは家族総出で出席するのが普通で、私も家族として出席しました。
彼女が帽子とマントを纏った姿を見た時、嬉しさのあまり、涙が込みあげてきて、堪えるのに苦労しました。しかし、家内が壇上にあがり、卒業証書を受け取る瞬間、思わず涙が零れるのを止めることはできませんでした。嬉し涙を堪えきれなかったのには、訳がありました。
父親から、「男が泣くのは、生まれた時と親が死ぬ時だ」と言われて育ったのですがね。まあ、近頃は、そのように言った本人は、テレビを観るだけで涙を流しているので、父親に似たということですね。
その訳は、一緒に暮らし始めてから、家内が、途中、何度も挫けそうになりながらも、絶対に諦めず、最後までやり通した姿を間近で見てきたからです。修士課程は、日本語でも決して楽ではありません。それを彼女は、英語で見事に成し遂げました。
当時、その5年後に、自分自身も、自分の卒業式でマントを纏う羽目(帽子は省略でしたが)になるとは、つゆ知らずでした。私の場合、Master*1ではなく、Diploma*2でしたが、それでも予想以上に死に物狂いでした。家内がいかに過酷な状況だったかは、身をもって体験することになりました。しかし、不思議なもので、自分の卒業式で、自ら涙することはありませんでした。
<注釈>
*1:Master’s Degree(マスターズ・ディグリー、レベル9:修士課程修了レベル)
*2:Diploma(ディプロマ、レベル5:大学1年目修了相当レベル)
(参考:Diplomaとは ←詳細はこちら)
一般的な、甘い新婚生活とは違いました。家内が毎晩のように深夜まで研究課題に追われていました。自分に出来ることは、ただ、作り慣れない和食を作り、家事全般を引き受け、疲れたときはヒーリングするだけ。
もし、替われるものなら、自分が替わりたいと、何度、願ったことか・・・。時には、後方支援しかできない自分を情けなく思い、家内に申し訳ない気持ちで涙しながら、先に就寝したこともありました。
以上のような日々が走馬燈のように脳裏に蘇り、彼女がとても誇らしかったです。授与式で学部の卒業生たちは、みな誇らしげで、身内に向かってガッツ・ポーズをする中、心の中では「うちの家内は、英語を母国語としない外国人で、しかも、学部じゃなくて大学院だぞ、凄いだろう!」と幼い子どものように、周りの人々に自慢したい気持ちで一杯でした。
強靱な意志なくして、この日を迎えることは困難だったと断言できます。そして、彼女の元・ホストマザーで、我々夫婦が結婚する際に証人となってくれたクリスさんと、常に彼女に研究課題をアドバイスしてくれたインド人の同級生ギタさんの支援なしでは、更に困難だったでしょう。まるで、目には見えない存在が、家内の支援を仕向けたかのようでした。
実は、かつて、私自身も、オーストラリアでMaster’s Degree(修士号)にチャレンジしようと思ったことがありました。しかし、日本で働きながらで、なかなか、入学に必要な英語力を得られず、断念した経緯があります。
正規留学という、かつて、自分が果たせなかった夢を、彼女が代わりに叶えてくれたような気持ちもありました。その期待が、時には、彼女の負担になったことも少なくなかったのではないかと、今では考えることができます。
しかし、その後、彼女が、一旦、私が諦めたはずの夢を次々と実現する機会を与えてくれました。海外で「暮らすこと」のみならず、「正規就学すること」、そして、「現地で就労すること」・・・。一方で、彼女自身も、私の出現で、実現できたことがあると思います。
互いに未熟者同士ですから、通常のご夫婦達と同様、とても些細な事で口論することはあります。しかし、我々夫婦のペースで、何があっても、互いの価値観の違いを認め合いながら、共に喜びとする方向へ進むため、最後まで諦めず、夫婦として助け合うことを忘れないようにしたいと思います。
かつて、自分の価値観は絶対に正しいと思い込んでいました。それを家内に無理強いしようとして、口論の原因となったことも少なくなかったと反省しています。価値観に、正しい、間違い、良い、悪いなどはなく、ただ、己の好き嫌いで区分しているだけだと思い知らされています。
実は、真の神との約束があります。1つ目は「夫婦となれたことに常に感謝すること」、2つ目は「何があっても自分を責めたり、批判したりしないこと」、3つ目は「何があっても、相手を責めたり、批判しないこと」です。
なかなか容易ではありませんが、もし、約束を果たせなかったら、恩寵を受け取れないぐらいの覚悟で臨むように言われましたので、最後まで諦めずに最善を尽くしています。自力だけでは困難が伴いますから、真の愛からの恩寵は不可欠です。
自分の過去世を知って(本当は、思い出した?)、今世、家内と出会い、夫婦となり、互いの魂を高め合える状況は、とても恵まれていて、有り難いことだと感謝せずにはいられません。
それから、何処へ行っても、常に多くの方々に支えられながら、ここまでたどり着くことができたことに大変感謝しています。古い流行歌にあるよう「人は一人では生きていけないもの」だと痛感しております。
これからも、決して楽ではないと思います。最後まで自分を信じて諦めないで一つ一つ、二人で協力しながら、歩んで行きたいと思います。そうし続ける限り、行き止まりのように思えた壁にドアが開き、次のステージへと進めると信じて・・・。
昔のアニメ「銀河鉄道999」の最後で、主人公の少年が「人は命に限りがあるから、一生懸命に生きられるんだ!」と叫んで、機械人間になることを拒否しました。当初は、機械人間の身体を手に入れるために、宇宙を旅していたのですが・・・。
彼女と、肉体を伴った夫婦でいられる時間にも限りがあります。魂は永遠でも、今世の肉体は、嫌でも朽ち果てます。その時は、誰にも止められません。逆に、限りがあるからこそ、集中して最善を尽くせるのかもしれませんね。
今回も最後までご覧いただきありがとうございます。
Tadashi