True-Story:大いなる存在に守られている? – その1 – 交通事故でほぼ無傷!

オークランドのサンセット
Auckland(オークランド), New Zealand

今回は、⼤いなる存在に守られていると思わざるを得ない経験を3回シリーズでご紹介します。その1回目は、バスの前方乗車口が変形するほどの交通事故でほぼ無傷(かすり傷と青あざのみ)だった驚愕体験です。今世の人生で交通事故に遭うのは初めてだったので、とても衝撃的体験でした。



それは、まだ、オークランドの中心市街地で、家内と一緒に暮らしていた頃でした。毎年、家賃が高騰する中、そろそろ、騒々しい街中から、静かな田舎に転居しようかと思案中でした。

Qualified Chef & Pastry chef(シェフ兼パティシエ)とRN(Registered Nurse:登録看護師)なら、選り好みさえしなければ、何処へ行こうが、2人揃って職にあぶれることはないはずですしね。

行き先は、Bay of Islands(ベイオブアイランズ)のPaihia(パイヒア)でした。これまでに数回訪れたことがあり、気に入った街でした。丁度、オーシャンフロントの宿泊施設内にある賃貸物件が出ていたので、下見を兼ねて、そこに宿泊してみることにしました。

しかし、この事故に遭って、出鼻をくじかれたような、「(転居する)場所が違う」と言われているような気がしていました。事実、現在、暮らしている場所は、居住環境や家賃など、これまでに暮らした住居の中で最高です。

話を往路の車中へ戻します。目を閉じて⾳楽を聴いていた時、物凄い衝撃を感じ、驚いて目を開けました。すると、丁度、その時に座っていた座席よりも前の席の側⾯にある窓ガラスが砕け散るところがスローモーションのように見えました。

車内が騒然としました。当初、ドライバーの身に何かあったのではないかと気がかりでした。幸い、ドライバーは無事だと分かり、ホッとしました。しかし、バスの左先方が前方のトラック後部に深くめり込んでしまいました。

それを解除する過程で、車内が前後に大きく揺れました。その度に、絶叫する女性の声が車内に響き渡りました。なぜなら、後方の乗客には、何が起こったのか、全く状況が分かりませんでした。しかも、左側は崖下でしたから、このまま転落すると思ってもおかしくない状況でした。

いつもは、最前列に座ることが多いのですが、なぜかその時は、空きがなく、前方4列目に座っていました。最前列に座っていたおばあさんは、頭から割れたガラスの破片をかぶりました。幸いにも、軽傷で済んだようですが、ハンカチで左側の頬を押さえていました。

丁度、冬休みの時期で、バスはほぼ満席でした。しかも、シートベルトがありませんでしたが、不幸中の幸い、運転手も含め、重傷者はいませんでした。私⾃⾝は、両⾜の向こうずねを前座席の角にぶつけ、左側はかすり傷、右側は⻘あざだけで済みました。

しかし、バスの左側前方は、大型トラックの後部に衝突した勢いで、大きく変形し、降⾞しにくい状態でした。しかし、全員が冷静沈着に行動して、無事、全員が⾞外へ出ることができました。

丁度、あと約30分で目的地に着くところでしたが、⼭道だったので、しばらく⾜⽌めされることを覚悟していました。真冬のニュージーランドは、天候が変わりやすいのですが、幸いにも、その⽇は、朝から晴れて、風もなく、穏やかな⽇でした。

幸運にも、たまたま、後続にいたマイクロバスのドライバーさんが、乗客の輸送を申し出てくださり、昼過ぎには、Paihia(パイヒア)に到着することができました。しかし、Paihia(パイヒア)よりも先へ行く乗客は、さらに待たなければなりませんでした。

Paihia(パイヒア)で、遅めの昼食をとっている時、バス会社から、安否確認の電話がありました。マイクロバスに乗る際、乗員名簿などによる確認がなかったので、個別に連絡する必要があったようです。この時は、英語の電話でも苦手意識はなく、応答できました。

後⽇、「Sathya Sai’s Message for the Day」という⽇めくりカレンダー(家内からもらったインド土産)の7⽉15⽇のページで以下のメッセージを⾒つけました。

[Sathya Sai’s Message for the Day: July 15]

If you feel you are hundred per cent dependent on God, he will look after and save

you from harm and injury.

Sri Sathya Sai Sadhana Trust, Publications Division

*参考(意訳):

もし、あなたが神に100パーセント頼っていると感じるのなら、神があなたの⾯倒を⾒て、危害や傷害からあなたを守ります。

この時の体験は、常に⼤いなる存在に守られていることを実感するためだったのかもしれません。

改めて、「⾃分に内在する神聖な存在を信じて頼ること(⾃⼰信頼)」と「⾃分に内在する神聖な存在を信じて仰ぎ⾒る⼼(信仰⼼)」、そして、「全ての判断を神聖な存在に託すこと(全託)」の重要性を痛感しました。

神聖な存在は、常に、無条件で守り、導いてくださっているそうです。しかし、時には「見放された」とか「罰を与えられた」ように感じることもあります(多数体験済)。でも、実は、己の魂がそのような状況を作っているだけなのですね。

まず第一に、上記の御言葉とは真逆に言えば「100パーセント頼らなければ、守ることができない」ということになりますね。それは、魂の世界では、自由意志が重んじられるからです。神聖な存在は守りたくても、守れない状況にもなり得ます。

第二に、不平不満、嫉み、怒りなど、ネガティブな言動は、神聖な存在からの守りを遮断します。これは、物理的な現象で捉えれば明確です。ネガティブなエネルギー(氣)は波動が低く、一方で、神聖な存在のエネルギー(氣)は、波動が高いです。このように、波動が異なるため、共鳴できなくなり、結果として「受け取れない」状況になるわけです。

生前の母にヒーリングをすると、いつも「まるで、カイロでも当てているように手が温かい」と話していました。これは、物理的に言えば、手を当てた部分の細胞の波動が高くなり、その振動運動で熱を発するから熱く感じるのですね。

また、不平不満、嫉み、怒りなどの低い波動を発していると、神聖な存在のエネルギー(氣)が遮断されるだけでなく、他のネガティブなエネルギー(氣)の波動と共鳴して、更なる悪い状況を呼び寄せてしまいがちです。 

ただ、いくら頭で分かったつもりでいても、目の前の状況が、自分の思う通りならなければ、嬉しい人は、まずいないはずです。ある意味、この状況は、己の魂を成長させる絶好のチャンスなのかもしれません。

最近では、何でも自分の思い通りになってしまう状況は、逆に怖いと思います。まさしく「裸の王様」と同じです。世の中で偉業を成し遂げられた方々は、とても謙虚な方だといいます。ご本人の努力もさることながら、大いなる存在からの守りと導きを最大限に受けた結果だと思います。

よく「神業」といいますが、これは、我を忘れて神のよい道具に徹した(無私)時、逆に言えば、神の「邪魔」をしなかった時、素晴らしい結果に至るのだと思います。だから、「我が、我が、我が・・・」と言っている限り、「偽物」に甘んじるしかないのですね。

これまでの人生(過去世も含め)を振り返ると、「不幸」だったと感じた状況の原因は、自ら進んで大いなる存在の守りから外れる言動の因果応報だったことが分かります。大半は、過去世における己の魂の言動の結果が、時を超えてもたされています。

通常は、己に都合良く、過去世での己の言動は忘れていて、相手の言動だけが残っていて、「自分は何の悪くないのに・・・」と憤慨することも多々です。しかし、大いなる存在の視点では、良い、悪いという認識はないそうですね。

それは、自分に都合が良かったり、自分が好きだったりすることは「善」と認識し、それ以外は「悪」と認識しているからのようです。そして、時には、自分を「善」とするために、「悪」を生み出してしまうことさえあるようです。

だから、「善悪や正しいか間違っているかで、争いが生まれ、やがてそれは収拾のきかない程、大きいものになってしまう事が世の常」なのですね。しかし、このような事柄は、いくら頭で分かったつもりでも、魂にまで浸透させるためには、現実生活の中で、体験するしかないようです。

今回は、⼤いなる存在に守られていると思わざるを得ない経験を3回シリーズの1回目として、バスの前方乗車口が変形するほどの交通事故でほぼ無傷(かすり傷と青あざのみ)驚愕体験をご紹介しました。

日本を離れて暮らすようになってから、まるで、ネタ(作り話)のような不思議な体験が多すぎるように感じます。これは、目には見えない大いなる存在に気づくためにあると捉えれば、とても腑に落ちます。実は、この後も、更なる驚愕事態は続きます。その2に続く。

今回も最後までご覧いただきありがとうございます。

Tadashi

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