Truth:自分の思い通りにならないからと非難してはいけない理由?

(※2019年11月23日に旧ブログへ掲載した記事を移転しました)

自分の思い通りにならないからと非難してはいけない理由として、facebook「聖者の言葉」に投稿(2019年9月11日)されていたダライ・ラマ法王14世のお言葉をシェアさせていただきます。とても耳が痛い思いで拝見しました・・・。

Maldives(モルディブ)
facebook「聖者の言葉」(2019年9月11日投稿)

「思い通りにならない」という取るに足らない問題に直面した時、私たちはいつも僧院長、教師、友人、あるいは両親を非難します。
私たちの自己中心性の感覚は、恥知らずなのです。

私たちは自分より優れた人には嫉妬し、 自分と対等な人には競争的であり、自分より低い人には得意になり、尊大です。
褒められれば幸福に感じ、批判されれば怒ります。

全く自らの自己中心性のために、煩悩は轡をつけていない馬のように、抑制が利かないのです。

私たちは非常に自己中心的であるために、自分の枕の上にネズミが落ちたのに気づいた時、ネズミが耳をかじるのではないだろうかと不安になります。

雷のバリバリという音を聞くと、閃光が自分の頭に落ちるのではないかと心配します。

悪霊の出るところでは、最初に、そこに住む悪霊にとりつかれるのではないかと心配になります。

自己中心性は、私たちの恐怖の源泉です。
悪い知らせを聞きたくないことから苦しむ人もいますし、敵を抑えられなかったり、身内の暮らしを援助できなかったりすることから苦しむ人もいます。

このようなあらゆる事例において、自己中心性は、一切の「責め」を負うべき根源なのです。

私たちの不幸はすべて、教化されていない心のために起こってきます。
「心」というものは、制御されないままに、自己中心的な態度に起因します。

自己中心的な態度は、毒の源泉であるトリカブトのようなものです。
それは、希望や不安のような感情の主人を作り出します。
そしてこれらの感情のために、私たちは絶えず失敗と災難に直面するのです。

通常、私たちは悪くなったことは何でも他者のせいにして、他者を名指しで責めます。
しかし問題の本当の根っこ、つまりあらゆるトラブルの根源、すべての不幸なことや悪い前兆の発端は、何ものにも邪魔されずに私たちの心を占拠している「自己中心的な態度」なのです。

その始まりすら分からない遠い過去から、私たちは、忠実にその指導力に追随してきました。
ですから、自己中心的な態度にすべての過失の責めを負わせるべきなのです。 

 「ダライ・ラマ 他者と共に生きる」より

facebook「聖者の言葉」(2019年9月11日投稿)

<以上全文引用>

実は、母の様態に一喜一憂し、年老いた両親の世話ができない自分を憂いでいました。どれも「自己中心的な態度」で、魂の成長の過程に於いては「取るに足らない問題」だったのですね・・・。なかなか奥深い内容ですが、どのような状況でも心の平安を保てるヒントをいただいたように感じます。

人間である限り未熟な存在で、つい、自分の価値観に合わない物事を非難したり、責めたりしたくなります。しかし、周りの状況は、全てが自分の言動の反響・反映だそうですから、その非難する波動は、全て自分に跳ね返り、更に自分が辛くなるだけで、自分も得しないのですね。

ただ、頭で理解したつもりになっても、人生に於ける様々な体験を通じて、1つ1つ、痛感しない限り、魂に刻み込まれないようです。気が遠くなる作業で、放棄したくても、逃げ道はないので(仮に自らの意思で肉体から離れることができても、自分の魂を消すことは誰にもできず、もっと大変なことになるらしいので・・・)、覚悟を決めて、今世の残された時間、精一杯に最善を尽くすだけですね・・・。

今世の肉体を離れる時、問われることは、「何ができたか」よりも、置かれた状況で「最善を尽くし続けたか」だけだそうです。それから、自らの未熟さを直視できないことは、とても不幸で、とても愚かなことだったのですね。しかし、何でも容易くできたら、今頃まで人間をやっていないですから、焦らず、慌てず、諦めずに生きましょう。

今回も最後までご覧いただきありがとうございます。

Tadashi


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