True-Story:人生のターニングポイント – その2 – スクーバダイビングとの出会い

私の人生に大きな影響を与えたのは、オーストラリアとスクーバダイビング、そして、ヒーリングとの出会いです。これらのどれか1つが欠けても、今の自分はいなかったと断言できます。今回は「その2」として、スクーバダイビングと私の出会いをご紹介します。

Agincourt Reef(エイジンコートリーフ), Great Barrier Reef, QLD, Australia


奇遇にも、我々夫婦は、オーストラリアでスクーバダイビングを始めました。当然、お互いが初めて潜った場所や時期は異なります。また、インストラクターになった場所と時期も異なります。もし、両方がプロダイバーになっていなければ、近所で暮らしながらも、全く接点はありませんでした。

実は、付き合うようになってから、初めて、家内から、彼女自身も頻繁にオーストラリアへ出掛けていたことを知りました。まるで、お互いが出会う機会を得るため、それぞれの深層意識が、せっせとオーストラリアへ通い、インストラクターにまでなったのかもしれません。


【私のダイビングとの出会い】
人生のターニングポイント・その1でご紹介したように、私は、ワーキングホリデーでシドニーに滞在中、Cカード(ダイビングの認定カード)を取得しました。PADI・OWD(オープン・ウォーター・ダイバー・コース)の後、続けて、AOW(アドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー・コース)まで受講しました。

参考ブログ:人生のターニングポイント・その1:オーストラリアとの出会い

実は、私は耳管が詰まりやすい体質のため、最初の頃は、潜降時、サイナス(副鼻腔)に痛みを感じることが多く、あまり、ダイビングを楽しむ余裕がありませんでした。だた、無事に潜って戻ることだけが目的のようで・・・。

しかし、この体験は、水恐怖症と同様に、自分がインストラクターになった時、耳抜きがしにくいお客さんの心境を理解する上で、とても役立ちました。もし、自分が、子どもの頃から水泳が得意で、耳抜きも全く問題ない体質だったら、お客さんの心境は理解不能だったはずです。人生では、何が役立つかは、後にならなければ分からないものですね。

そして、オーストラリア一周旅行中、ポートダグラスに滞在中、エイジンコートリーフに潜りました。のちに、この海に魅せられ、入国審査で怪しませるほど頻繁に通うことになるのですが、当時は、全く楽しめませんでした。やはり、サイナスが痛くて、だた、無事に潜って戻ることだけが目的でした。

それでも懲りずに、同じくオーストラリア一周旅行中、パースにあるロットネスト島で潜りました。日本では、水中ガイド付きで潜ることが主流です。しかし、オーストラリアでは、認定ダイバー同士でバディを組んで、潜ることが主流でした。その時は、幼い子ども連れのご夫婦と一緒で、1回目はご主人、2回目は奥様と一緒にバディを組んで潜りました。この時も、だた、安全に潜って、無事に戻るだけで、全く楽しめませんでした。

そして、日本へ帰国後、ダイビングする機会がなく、潜ることを忘れたかのようでした。しかし、30代前半、突然、スクバーダイビングを再開しました。器材を一式揃え、伊豆半島の海洋公園や三浦半島の城ヶ島、伊豆七島の八丈島、そして、グレートバリアリーフ(Great Barrier Reef)のエイジンコートリーフ(Agincourt Reef)で頻繁に潜るようになりました。

この時の体験は、プロショップで、水中ガイドする時に役立っただけなく、八丈ツアーやグレートバリアリーフツアーを企画・催行する時にも大いに役立ちました。自分がお客さんの立場で、その場所を楽しんできたので、それをお客さんへ提供することができて、とても喜ばれました。

趣味で潜っていた頃は、仕事のストレス解消に役立っていました。海中という「非日常空間」に身を任せると、大自然と一体化したような、母胎に戻ったような安心感が得られ、現実を一時的に忘れるため、当時の自分にとっては、不可欠なものでした。また、水圧は、身体に溜まったネガティブなエネルギー(氣)を浄化する上で、有効だったと思います。

しかし、仕事が忙しくなり、なかなか、潜りに行くこともままならない日々が続きました。次第に、一生懸命にやれば、やる程、状況が悪化するような、とても虚しい気持ちになることが多くなりました。そして、その仕事に就いた頃の喜びは、完全に消え去っていました。

以前、高江洲薫先生による個人セッションを受けた時、今世の私は、「仕事意識が強くなると、本来の喜びが失せて、苦痛に変わる」体質だと聞かされました。まさしく、その通りでした。よく、ピンチはチャンスといいますが、今から思えば、目には見えない存在から、「今の状況は違う!」と教えられていたのだと思います。

それから、私が活動する場所となったプロショップとの出会いも不思議でした。それは、当時、毎年のように、夏場、国家試験の技術士を受験していました。その時は、それまでとは本気度が違いました。技術士になったら辞めようと決めていたのです。通常は、仕事に使うために取得するものですが、自分の中では「もう十分に体験した」でした。

受験の直前、夏期休暇を取って、自宅ではなく、集中するために、都内のビジネスホテルに泊まって、受験準備をしていました。その時、休憩のため、外出して際、たまたま、立ち寄った本屋で、ダイビング関連の雑誌を手にしました。そして、実家の近所にあったそのプロショップの存在を知ります。

後から、オーナから雑誌に広告を載せた記憶はないと言われ、なぜ、その雑誌に掲載されていたのかは、今でも謎です。まさしく、目には見えない存在が、私にも分かりやすく教えてくださったのだと思います。

そして、とても不思議な感覚でしたが、その年は、技術士になるという何の根拠もない自信がありました。そして、無事に筆記試験をパスし、それから、口頭試験もパスし、その年の年度末には、登録技術士となっていました。全く面識のない口頭試験管の方々が、なぜか、私の味方になって助けてくださっているような錯覚さえありました。

その時、自分の魂が望んだ方向へ進むと覚悟を決めると、己に当たられている能力・才能が最大限に発揮できるものだと気づき始めていました。

当時、同級生の大半は、結婚して、自分の家と車を所有し、子宝に恵まれていました。頭では、他者と比較しても意味がないと考えつつも、自分は、独身で、実家に居候し、車もありませんでした。もう1人の自分が「今、仕事辞めてどうする?」と呟いていました。

まず、ダイブマスターという、水中ガイドと講習補助ができるプロダイバーの認定を受けました。その後、インストラクター養成コースに通い、インストラクター試験に合格して、晴れて30代後半でインストラクターになりました。子どもの頃、私は水泳が大嫌いだったので、両親からは、私がインストラクターになったことが信じられないと言われました。

インストラクターで生計を立てることは、容易ではないことは承知の上でした。しかし、当時、先が全く見えないように感じる中、何か見えない力に引き寄せられていたように感じます。

人を喜ばせることで、自らが喜び満たされる性格のため、インストラクターは、とてもやり甲斐がありました。早朝から準備して、帰宅する頃には翌日の明け方になることも珍しくありませんでした。
そして、約5年間、週末はインストラクター、平日の週4日は、以前の職場で、アルバイトとして勤務しました。


【家内のダイビングとの出会い】
私と違い、家内は子どもの頃から泳ぐのが大好きだったようです。看護師として忙しく働いていた20代の頃、長期休暇をとり、オーストラリアのゴールドコーストでホームステイしながら、Cカード(ダイビングの認定カード)を取得しました。その時、ホストファミリーに連れられて、サンシャインコーストのカランドラを訪れていたそうです。
その後、ダイビングに熱中し、20代後半でインストラクターになりました。


【家内と私の出会い】
私がダイブマスター候補生だった時、ダイビングのプロショップで、既にインストラクターだった家内と初対面します。彼女は「どこかで会ったことがある」と思ったそうです。

その後、私もインストラクターとなり、スタッフ・ミーティングなどで顔を合わせる機会はありましたが、お互いにオーストラリアでダイビングを始めたことを知ったのは付き合い始めてからでした。


オーストラリアへ頻繁に出掛けるようになってから、将来のパートナーも、オーストラリア好きだったら良いと思っていました。そして、スクーバダイビングに熱中していた頃も、同じスキルで一緒に潜れるパートナーなら、最高だと考え始めていました。

しかし、自分がインストラクターになった時、オーストラリア好きで、同じインストラクターの女性は少ないと思っていました。その上、社員を辞めた40歳過ぎの男性と結婚しようと思う女性は、まずいないと考えていましたが、まさしく「灯台下暗し」で、とても身近にいたので驚愕しました。

今回は、私の人生に大きな影響を与えた「オーストラリア」と「スクーバダイビング」、そして、「ヒーリング」のうち、その2として、私とダイビングとの出会いをご紹介しました。

今回も最後までご覧いただきありがとうございます。

Tadashi

Tadashi

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