Truth:仕事の中にも神が存在する?

Auckland(オークランド), New Zealand

(※2017年11月8日に旧ブログへ掲載した記事を移転しました)

facebook「サティヤ サイ ババの御言葉」のサイトに和訳された御講話が掲載されています。その中から、自分が必要としているメッセージを得ることが多いので、頻繁に確認するようになりました。

先日は「真の瞑想とは、毎日の生活の中で行うあらゆる種類の仕事の中に…神が存在することを認識することにあります。」という記述に目が留まりました。

以前から、「神はすべてに内在する」と聞いていましたが、「仕事を神と見なして、始める前に頭を下げる」という発想は、今までの自分には全く皆無でした。


facebook「サティヤ・サイ・ババの御⾔葉」の投稿から引用

蓮華座(パドマーサナ)を組んで座って、クンダリニー シャクティ(生命エネルギー)をムーラーダーラ チャクラ(基底神経叢:脊椎の一番下にあるチャクラ)からサハッスラーラ チャクラ(頭頂部の中心)に上昇させることがディヤーナ(瞑想)なのではありません。

真のディヤーナ(瞑想)とは、毎日の生活の中で行うあらゆる種類の仕事の中に…神が存在することを認識することにあります。
神はすべてに内在しています。

あなたが選んだ一つの場所に神を閉じ込めようとするのは、瞑想ではありません!
私たちの文化によれば、まず最初に、自分が為さなければならない仕事に対して頭を下げます。

どんな仕事であっても、それを実行する前に、私たちはその仕事を神と見なすべきなのです。

それがウパニシャッドが私たちに教えている「タスマィ ナマハ カルマネー(私は自分がしなければならない仕事に敬礼し、その姿の中にある神を崇めます)」なのです。

あなた方は、タブらやハーモニウムを演奏する人を見たことがあるでしょう?
彼らは演奏を始める前に、楽器に対して頭を下げます。

創造物すべてを神の姿と見なすこと、そしてその精神で自分の義務を遂行すること、それが真の瞑想なのです。

―1981年5月12日の御講話


実は、「所詮、カフェの料理・ベーキングだから。。。」と、心の隅にあったかも知れない気持を見透かされているように感じました。たぶん、「有名なホテルの厨房で経験を積んでから、どこどこホテル出身の調理師か製菓師を売りにして、自分の店を構えたい」という、「我が、我が、我が」が残っているのだと思います。

だから、仕事を選り好みできない年齢に達してから、食の道を始めることになったのだと納得しました。自分が情けなく思わざるを得ない努力・忍耐の状況が続くと、いくら頭では分かったつもりでも、どうしても「もし20で志していれば、今頃は。。。」と思いたくなりますよね。

全て神にはお見通しですね。一切の誤魔化しが効かない世界だと痛感します。早速、昨日の朝、仕事に頭を下げてから始めてみました。いつも、料理の注文、料理の仕込み、ベーキングの仕込みなどに追われ、休憩する暇もない毎日で、心の余裕がありませんでしたが、昨日は「料理やベーキングを楽しもう」と思えるようになりました。

ホテルだろうが、カフェだろうが、例え、たった1人のお客さんでも、食べて幸せになっていただけたら、自分も幸せになるという基本を思い出させていただきました。

神が、私のために、特別に今の仕事を準備してくだったもので、その中に神が存在しているのなら、ありがたく感謝して、その仕事が終わりになる日まで、神に全託して、最善を尽くすと決心しました。

今回も最後までご覧いただきありがとうございます。

Tadashi


Tadashi

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