今回は、家内以外で、私をオーストラリアへ呼んでくれた方々の「その1」として、「My Aussie Mum(オーストラリアのお母さん)」をご紹介します。彼女のお宅でホームステイできた体験が、私がオーストラリアで暮らしたいと思うようになったと言っても過言ではありません。
過去のブログ記事<人生のターニングポイント・その1>でもご紹介しましたが、ワーキングホリデービザでシドニーに長期滞在していた時、彼女のお宅に合計で約1年弱、ホームステイさせて頂きました。当時、同じようにホームステイしていた英語学校の同級生と比べたら、私はとてもラッキーだったと思います。
参考ブログ:人生のターニングポイント・その1:オーストラリアとの出会い
私がシドニーでの長期滞在を終え、日本へ帰国した後、彼女は、ゴールドコーストへ引っ越してしまいました。しかし、その後も、毎年、クリスマスカードを交換したり、私の甥が生まれた時にお祝いの品を贈ってくれたり、とても親しくお付き合いをさせて頂いていました。
そして、頻繁に、家へ遊びに来るように誘ってくれました。しかし、以前のブログでご紹介した通り、ブリスベンとゴールドコーストは、なぜだかあまり好きになれず、どうしても、彼女の家を訪問する気になれませんでした。実は、当時の私は、毎回、入国審査で怪しまれるほど、頻繁に、シドニーへ通っていたにも拘わらず・・・。内心、もし、あのままシドニーだったら、毎回、訪ねるのにと思っていました。
ある年、クリスマスカードが宛先不明で戻ってきてしまいました。それから、全く音信不通となってしまいました。彼女の身を案じつつも、為す術がありませんでした。「音信不通となった人を探すテレビ番組」にでも応募しようかと真剣に考えるほどでした。
当時、オーストラリアを旅行中に知り合った方々とも、英語の勉強を兼ねて、文通していました(まだ、電子メールやソーシャルネットワークが普及する前でしたので)。しかし、全て自然消滅していたので、彼女と音信不通になることは、とても寂しかったですが、仕方ないことだと思っていました。
ところが、ある日、彼女の悲報が届いたのでした。あまりにも突然で、悲しくてたまりませんでした。そして、彼女の元を一度も訪れなかった事を、とても悔やみました。でも、「後悔先に立たず」です。自分の意思で行かなかったのですからね。
彼女の息子(私と同い年)が、気を利かせて、知らせてくれたのでした。彼女は病気を患い、転居したため、私の手紙が届かなかったようです。偶然にも、彼女が旅立った日は、丁度、私が、オーストラリアで留学していた家内と新婚生活を始めるために、ブリスベン行きの飛行機を予約した日でした。
まるで、彼女は、私の身に起こっていたことを全て知っていて、「我が子(私)」が、無事に、オーストラリアへ「帰還」できる日が決まったことを見届けるまで、旅立つことを待っていたかのようなタイミングでした。
私が、オーストラリアへ「帰還」できるようになった経緯は、以下のブログをご参照ください。
参考ブログ:過去世でのフラッシュバック:バイロン岬で涙、そのわけは?
私がブリスベンに転居して間もなく、彼女の亡骸に会うことができました。彼女の遺影の前で、家内を紹介し、結婚の報告をしました。生前の彼女は、チョコレートが好物だったので、箱入りのチョコレートをお供えしました。彼女は喜んでいた気がします。まるで、実の母が亡くなったように、寂しくて、涙が溢れて止まりませんでした。
その後、彼女の息子が、生前の彼女が暮らしていた家を案内してくれました。生前の彼女が使っていた机の引出には、私が日本から送った手紙が大切に保管されていました。そして、彼女の息子から、生前、彼女は、いつも、私が送った手紙も見て懐かしがっていたと聞かされました。
その翌月には、シドニーの墓地(生前の彼女の希望で)へ納骨するところでした。たぶん、私が会いに来ることを知っていて、それまで待ってくれていたのだと思います。彼女が、シドニーからゴールドコーストへ引っ越したのも、私に、シドニーからブリスベンに注意を向けさせるためだったのかもしれません。
今更、言っても過去は変わらないことを承知の上で、もし、転居先が分かっていたら、家内と初めてバイロンベイへ旅行した時、立ち寄る事ができたはずです。ゴールドコーストは、ブリスベンからバイロンベイへ向かう途中にありますから。それから、私の結婚が決まった時も、彼女へ報告することができました。
悔しさのあまり、涙がとまりませんでした。何故なら、当時、彼女は、私のことを実の息子のように、私が独身でいることを気に掛けていましたので・・・。彼女に出会ったからこそ、オーストラリアの生活にとても馴染み、いつかオーストラリアで暮らしたいと思うようになりました。また、彼女は、日本にとても感心を持ってくださり、当時の私のつたない英語にも喜んで付き合ってくれました。
シドニーで彼女が暮らしていた家は、丘の斜面に建つ2階建で、プール付きでした。実は、子どもの頃から、プール付きの家に住むのが夢だったので、いつも、喜んでプール掃除を手伝っていました。当時は、日本よりも不動産価格が安かったので、日本では無理かもしれないけど、オーストラリアなら、プール付きの家で暮らせるかもしれないという思いもありました。
この時の体験のお陰で、多少なりともオーストラリア訛りの英語に慣れ、オーストラリアの生活にも慣れ親しむことができました。この体験があったからこそ、オーストラリアで暮らしたいと願い、何の躊躇もなく家内をサポートしようと決断できました。しかし、のちに、ただホームステイするのとは、大きな違いがあることを体験することになります。
肉体は滅んでも、魂は永遠に続くそうです。来世以降に、互いに性別や国籍も異なる人間に生まれ変わって、また、違った関係で再会できる日を楽しみしています。その時まで、今世の彼女との出会いは、自分の魂の中で大切にしたいと思います。
小学校時代の校長先生が、よく「一期一会」と話されていました。今世の残りの人生も、人々との出会いを大切にしていきたいと思います。今世の自分は、どこへ行っても、素晴らしい方々と出会い、助けられる体験が多く、とてもラッキーだと実感しています。
今回は、家内以外で、私をオーストラリアへ呼んでくれた方々の「その1」として、「My Aussie Mum(オーストラリアのお母さん)」をご紹介しました。丁度、数日前に命日を迎えましたが、彼女のご冥福を心よりお祈りします。
今回も最後までご覧いただきありがとうございます。
Tadashi
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